kuroiの気ままブログ

小説書いたり読んだり。

純文学って何?

私は基本的に純文学作品にしか手を付けないことにしています。

 

別に大衆文学を毛嫌いするわけではありません。裾野を広げればそれだけ読みたい作品が増えるので困るというだけのことです。だいたいすでに読みたい本が山積みであるので新しいジャンルの本に目を向ける暇がないのです。

 

純文学とか大衆文学とか言っているのは日本人だけだ、という批判もあります。

海外ではそんな分類しないし、日本でもその線引きは非常にあいまいであるので、その意見はごもっとも。それでも日本の文壇には純文学と大衆文学が確実に存在している(ように見える)。

 

現代純文学の代表的な作家を挙げるとすれば、大江健三郎村上春樹小川洋子村上龍川上弘美とかですかね。若い人だと、平野啓一郎、村田紗耶香、中村文則又吉直樹とか。

じゃあこの人たちは何をもって純文学作家なのか。それは単純にデビューした雑誌が純文学系の雑誌だってことは一つの理由でしょうね。基本的に純文学系の雑誌(文学界とかすばるとか)でデビューした作家さんはその文章を買われてデビューしてんだから当然純文学の作家だよねって話。

だから日本において純文学か大衆文学かを決める大きな要因としてこの文芸誌ってやつがあるのね。純文学の雑誌が認めた作家は純文学作家。大衆文学の雑誌から出てきた作家はそういう作品を書くよねってことになるのかな。

 

でも、純文学の作家さんが大衆文学書かない、ってわけじゃない。

ファーストラブで直木賞作家になった島本理生さんは純文学の出身だし、これも最近だけど、宮内悠介さんとかもいろいろ書いてたりする。島本さんは直木賞の受賞会見の時に、「芥川賞はもう無理だな、って思って純文学はあきらめた」って言ってたんですよね。これって作家は明らかに純文学と大衆文学を書きわけてるってことですよね。

 

中村文則さんが『何もかも憂鬱な夜に』のインタビューの中で「警察小説を純文学でやろうと思った」って言ってたんですよ。純文学でやる、ってなに? って思ったんですが、中村さんは2017年に上智大学で開催された「人生に、文学を」オープン講座において「純文学とは何か」について持論を述べられていて、

「小説は人間を描いている。純文学は単純にそれが深い」みたいなことをおっしゃってました。あやふやだけれど、でもわたしは一応それで納得しています。純文学の作品はたしかに深く人間を描き出している。それは感じます。

 

大衆文学は読者が感動したり、怖いと思ったり、面白いと感じたり、する。

純文学は人間の本能や極限状態や本質をえぐり出している。

でも、この二つって相反するものじゃない。まったく違う二つのジャンルじゃないんですよね。だから、両方の要素を兼ね備えた小説が世に出ることがある。

そういうことだと思うんですよね。

 

 

でも、そんなことより本って面白いんですよ。

それでは。